2013年1月19日土曜日

立ち位置を鏡に見る。

立ち位置を鏡に見る。


これは失敗の記録である。 2013 0119の未明


大きな鏡の前に立って、ポーズ。
肩の高さに両腕を左右に伸ばす。

鏡から1メートルくらい離れないと、自分の姿が見えない。














洗面所の鏡なら上半身は映って、
鏡面にほとんど接触しているコップもある。

自分の姿は、鏡から離れた分、
鏡面から離れた奥行き空間に見える。

意識を自分の身体から離すと、
または、誰かが鏡の前でポーズをしているのを見ると、

鏡面を挟んで一対の像があるだけ。

鏡イメージを列車窓にしよう。











神田駅が抜けとる。
東京駅終点になってない。


東京の中央線オレンジと総武線イエローは複々線。
四ツ谷駅から市ヶ谷駅へ向かうあたりは並走感たっぷり。

並走する列車窓と列車窓が数メートルもないところもある。
これを完全にゼロにする。















黄色が総武線車輌
オレンジが中央線車輌
緑が列車窓。

総武線と中央線車輌は色違いだけで同型車輌。
同じ速度で御茶ノ水駅方向へ進んでいる。

車輌中央にピンホールカメラ。
窓への斜線視線と垂線視線は長さが違うから、
情報遅延時間が違う。しかし取り敢えず無視して、


ピンホールカメラは点。
窓枠は線分、有限長さ。
車両も線分、有限長さ。

進行方向後方にも進行方向前方にも連結車輌。
何輌連結しているかわからないから方眼紙の無限性。
方眼紙マス目の繰り返し無限性。

総武線車輌をコイルに見立てよう。
中央線車輌を棒磁石に見立てよう。

これで電磁誘導実験の相対性が確認された。

総武線車輌内の中の人でもなく、
中央線車輌内の中の人でもなく、

俯瞰する理科実験室の観察者にとって、
コイルと棒磁石の両者は同等の存在である。

これを「1人称の相対性」と呼称しよう。

総武線と中央線の速度に違いが出ても、
等速直線運動的、車輌中央同士の横ズレ、
車輌中央同士を結ぶ長さの拡大一定があるだけである。

1人称の観察者にとって、窓枠緑の中央、
ピンホールカメラから窓枠緑に垂線を下した位置。
窓枠中央2つが結ぶ距離、長さがあるだけである。

長さ拡大一定が大きいときと小さいときで、
電圧や電流に違いが出るらしいが、それは電磁気学の話。
ここでは本質に関係ないので捨てる。加速も無視。


それでは「2人称の相対性」とはなにか。

これが「中の人」。


ジムに行くとスタジオに大きな鏡がある。
控えめな、それは嘘だが、いまのところ目立つことを嫌う俺は、
初心者ヨガクラスなんかに出るんだが、いつも後ろ。

鏡から離れるほど自分が小さく見える。

洗面所の鏡でも、鏡横幅より広い幅が鏡面奥行き空間に
見えるけど、

ヨガクラスなんかだと暗くて、鏡面がそこにあって、像は
もっと後ろというのが判別できなくて、ただ像がある。

像を取り囲む環境の縮尺具合がわからなくなって、
像そのものが小さいのか、像が奥行き遠くにあるのか
判別できなくなる。














こんな感じかな。
鏡幅緑と両腕伸ばし青の長さが同じ。

鏡を見るとき、鏡表面に焦点を合わせることなく
像である両腕長さに注目する。
像は周辺環境と共に視野に入る。

鏡表面は有限面だけど、
なんの特徴もないその部分に注目しようとすると
鏡枠内に枠を形成できず、無限性の中に点を求める感じ。

両腕長さは背景から内外を分離できるイメージ。


注目をしているのは両腕長さだけど、
赤線のところも見える。

スタジオだと赤線が床だったりして暗くて消える。 

こうなると像単体イメージになる。

実際は、スタジオだと鏡の近くに先生がいたり、
前の方にいる生徒さんの像も鏡に映っていて、
大きさが比較できるけど、

像単体イメージになると、面(つら)があるのに、
あたかも点のような感じになる。

点と有限面と座標面(無限性)に違いがあるのに、
思考実験等の純粋イメージ世界では、
単体イメージに大きさがない。

大きさがないと、点や無限性との違いを意識しない。

単体イメージの中に内包する大きさがあっても、

単体イメージそのものの大きさがなにかと比較
されないと、
外部のなにかである並列される同クラスのものと比較
されないと、それがどの程度奥行き方向にイメージされた
ものか、わからなくなる。

数学の xy座標面では抽象思考の為、観察者の位置がない。



鏡を見て、鏡の向こうに奥行きを感じる。
そう措定するのは、脳のプログラム。

光学(こうがく)では、実際にそこに空間があるかのように
扱うけど、そこは通常の3次元空間とは違う操作的なもの。

横幅長さ環境風景が奥行きに変換されている。



総武線と中央線の窓枠同士はゼロ距離になったけど、
「中の人」同士、ピンホールカメラ位置は互いに離れている。


「2人称の相対性」になると、相手側イメージの大きさと
自分側身体イメージの大きさが非対称になる。

相手側イメージの大きさも、知識としては
自分側身体イメージの大きさと同じであることを知っていても、

現実の窓枠だったり鏡枠だったりの大きさの中に、
相手側イメージを見てしまうと、
相手側イメージは小さいはずだとなる。


このトリックのようなものは視野角によってもたらされる。


いま必要なもの以上を取り込んでしまって、
わけわかめな哲学的文章になってるのを抑えて、

視野角が出てきたのは、空間の中に立ち位置を点として
指定したからである。

目を瞑(つぶ)れば、自分の姿が見えない。

自分の頭部を点として、原点Oとする。
肩の高さで両腕を左右に伸ばし、
そこを x=-1、x=+1にする。

進行方向後方客車と進行方向前方客車への
扉出口を x=-3、x=+3にする。















目を開けて、列車窓であり鏡である緑のラインを見よう。

先程までは、左右に伸ばした両腕長さだけが
列車窓であり鏡であったが、いまは列車全長すべてが
列車窓であり鏡になった。

この図では、2メートル範囲だけを注目している。
視野角を変えれば6メートル範囲が同一列車内なので可能。

図の比率がおかしくて赤線がそれぞれ2メートルに見えないが
脳内補正よろしく。

数学の座標は写真に撮ったあとのイメージみたいなもんで、
大きさはあてにならない。

赤青赤の6メートルの線が、2メートル幅に緑ラインで
見えている。


総武線と中央線の「中の人」の立ち位置を緑ラインに
移動させよう。

中央線車輌内の「中の人」である自分は、
元々、窓であり鏡を見ていて、
自分の両腕先端方向は
見ていない。

「中の人」は、自分に関しては目を瞑ってるのと変わらない。














視野角を拡げていくと、最終的には視野角180度。

こうなると、いまいる列車内の6メートルだけでなく、
連結されてる両隣の客車方向へ無限に延長できる感じ。

「中の人」は自分の顔を直接見れないだけでなく、
自分の両腕先も見れない。

これは両隣の客車風景が見えないけど、延長上にあると同じ。


それなのに、相手側の顔と両腕先を同時にイメージしている。
さらには、「後方客車への扉出口」と「前方客車への扉出口」も
同時にイメージしてる。

しかし、相手側、ここでは黄色総武線両隣客車風景は見えない。
なにか量子的雰囲気。


現在時は点でしか表されないのに、そこが空間である。
大きさを持った空間。無限であるかどうかわからないが、

両腕の長さや、列車全長がある世界。
実は過去の記憶がいまここで再生されているイメージ。



「中の人」は、

相手側にイメージとして、頭部、両腕先、両連結扉出口を
同時に見る。

自分側に言葉による規則で、頭部、両腕先、両連結扉出口が
同時に存在しているはずと思い込む。


さて、「2人称としての相対性」とは、相手も自分もこのように
同じ経験をしているはずということである。


自分の両腕を伸ばせば、列車窓であり鏡である横幅と
同じ2メートル。そこに相手側の姿、6メートルが見える。
視野角がある程度あるとき。

視野角が180度になったとき、6メートルに見えるものは、
6メートル長さがあるところに存在しているはずとなった。


視野角に関しては、あとで情報遅延によって規格化するとして、
相手の見てくれが小さく見えても、それは相対性の本質でない。

相手もこのとき、自分の見てくれが小さく見えているはず。
ということである。

相手の見てくれが小さく見えるということは、
自分と同じクラスのものとして扱っていないということ。

相手の見てくれは、列車窓や鏡面にイメージした。
相手そのものは、空間的奥にいた。

社交ダンスの男女カップルが頭部を近付け、
両手を重ね、両腕を伸ばすとき、

それは相手イメージではなく、相手の身体が互いに
同じ空間にいる。
身体と身体がゼロ距離で、想定される列車窓や鏡面を
挟んでいる感じ。

接することは存在であり、イメージは過去のもの。

存在と過去は、同じクラスではないということが
なんとなくわかっていただけただろうか。

長さは長さと対応させる。点は点と。無限は無限と。



それでは「3人称の相対性」。

現在時が点でしか表すことができないのは、
空間に対して、立ち位置が点であるから。


立ち位置は点なのに、
鏡に写った自分の両腕を伸ばした姿や
列車窓の向こうの相手が両腕を伸ばした姿は線である。

そこから、想像的に自分の姿を構成するわけである。

現在時の自分の姿。腕の先は空間的に離れているから
現在時を見ることができない。

そもそも列車窓の向こうや、鏡に写った自分の姿が
目に入るまでの視線距離が一定でない。

普段なにげに見ている映像は、時刻がバラバラな事象の塊。

これを規格化しなければならない。


総武線列車と中央線列車に対して中立的なもの。
線路であり枕木でありホーム。


そもそも、自分の方が動いてなく、相手が動いているとするのは
立ち位置と列車窓枠の関係が動いてないからであって、

ブラウン運動的に考えると、いまこの瞬間、動いてないと
見做せるだけで、自分も動いているかもしれない。

相手は上り列車として。自分は下り列車として。
相手も自分も相対的に絶対的に停まっているかもしれない。
相手は下り列車として。自分は上り列車として。

思考実験と違って、実際の実験は自分の姿も相手の姿も、
線路や枕木やホームに相当する実験空間そのものの現在時も
見えない。

点として、実験空間に立ち位置を占めることはできるが、
全景が見えない。見れない。

3次元空間にある棒の長さを、立ち位置からの
見かけの長さではなく、xyz成分に分けて長さを知ろうとする
手続きと同じ手法が必要になる。

棒の長さは三平方の定理を使って

成分を正面にしたもの。
y成分を正面にしたもの。
z成分を正面にしたもの。

から従来は求めた。正面にして長さを長さに対応させた。
ただ従来のものは、座標空間に情報の遅延が入ってなかった。

長さを知るには、実際の空間に立ち位置を占めていては
できない。


「3人称の相対性」では、

総武線列車の「中の人」
線路の枕木複数に立つ「中の人」複数
中央線列車の「中の人」

のどれにも属さない位置から、実験系の同時を規定する。







理科室での電磁誘導の実験。
コイルや棒磁石の「中の人」にはなった。























以下捨て文書。最初に描きたかったことを防衛する
前振りが長すぎる。20130117 13:58
@@@@@@@@@@@@@@

前書いたのと同じになりそうなので、捨て。


パイロットにとって加速は内臓に負担である。
脳や眼球にとってもブラックアウトレッドアウト

自分が等速直線運動(系に対して速度0から光速C)
以外の運動をすると、皮膚に覆われた枠内にある
血球群の布置が急激に変わって、系を外れようと
していることがわかるようである。

いま部屋にいる自分。内臓に負担はない。
下方向への重力だけ。

知識によれば地球は自転し太陽を公転し、
銀河自体が自転し、銀河もなにかに対して公転?

ここでは従来の相対性概念から徐々に離れるのを
目指す。


3次元空間をいま、皮膚が内側空間と外側空間で二分する。
トポロジーみたいに大きさを無視しよう。


まずは大きさを無視する前。

自分の皮膚内側に囲まれた空間に小人をイメージ。
本来は内臓があり、内臓と内臓の間に隙間があったり
するらしいが、無視。

自分の皮膚外、皮膚と部屋壁に挟まれた空間が、
玄関や窓から戸外に出なければ室内にいるときの
移動可能空間。ここにも小人をイメージ。

この部屋壁をイメージで消すと、
さっきまで皮膚の内も外も有限空間であったのが、
皮膚外側が無限の延長性ある空間になった。

3次元空間意識なら、

x^2+y^2+z^2=α 0<α 球の内外。
まんまる生物。の皮膚内外空間。

地球儀のように回転させる。
回転させられても、足を使って、その場で回転しても
内臓感覚で自分が動いている感じ。

逆に相対性から、無限の延長性ある空間の方を回転させる。
イメージできるだろうか。イメージしにくい。